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家族を失う不幸、命を失う悲劇の埋め合わせは [日記]



東北大震災、3.11で生まれた未曾有の惨劇、不幸、悲しみ、死、

一方で家族を失うことなく難を逃れた幸運、幸せ、喜び、生き伸びた人々、


その運命を分かつ選択はどのように行われたのでしょうか。


私が言いたいことは、あの災害の最中にあって、何を選択したから生き伸びれたとか、
逆に生きたいと思いながらも死んでいくしかなかった人たちのその行動としての選択ではなく
そこに大いなる存在の選択、あるいは自らの人生の設計者たちのシナリオがどう機能していたのか

そこに釈然としない思いを感じるということです。


あの規模の自然災害が、地球レベルの警鐘だとする考え方があるにしても、
それがなぜ日本の東北地方でなければならなかったのか。


そして、あまりにも多数の人々が一度に襲われたあの災害の中で、運悪く家族のすべてを失った
人、一方でそれぞれの家族が違う場所で命の危機にさらされながらそれでも結果的に全員が
助かった人、その違いは偶発的な「運」によるものではないとしたら、

この世にある物事にまったくもって偶然や偶発的なことはないとするならば
たとえ木の葉が一枚落ちることにさえ偶然がないのなら、何が運命や宿命に左右したのでしょうか。



私たち、この世を生きる者、この世しか知らない者、生まれてきてこの三次元の感覚と
そしてよほど客観的にこの宇宙の構造に想像力を働かせ、客観的に考えることができなければ
分離感覚の中にあるということさえわからない我々にとっては

この世で命を失うこと、そして死を迎える瞬間こそ「終わり」であり「最大の苦痛」の時であるわけで
次があるということなんて基本的には考えることができないで自然です。

楽しさや喜び、幸せを感じること、あるいは快感でさえ、逆に苦しみや苦痛にもこの世で感じるもの
以上のものがあるということは、想像したとしてもまさに想像を絶するものである限り、
考えることさえ及ばない。


そして、死ぬことより生き残ることがまさに生き地獄という有様も目前にある。


この世で受ける不幸にその前世とつりあう配分があり、次の世で受ける幸せにもこの世での物事の
配分や裁量があって、引き合う仕組みになっているらしい。
あるいは次の世は輪廻転生ではなく、新たな次のステージであるということもあるでしょう。


私はすでにほんの少しにせよ、想像を絶する体験があることで、そのことが確かにあるという
実感の中にあるわけですが、しかしながら、だからといって人としてこの世に生き続ける間は
その仕組みについて詳しく知りえることはないはずで、たとえ仕組みや成り立ちを詳しく知った
ところで知識が役に立つわけではないということの実感の中に私はいます。


だからこそ、釈然としないのです。


復興ボランティアでの被災者語り部の話にも、不公平としか思えない不幸と幸運が入り混じって
いて、これ以上はないという不幸の中に生きる人にも、ただ慎ましく真面目に生きていた人が
多く含まれていると思うし、救われた人側にはきっといわゆる悪人もいたはずだと私は思っています。


つらいことを辛抱し、慎ましくまっとうに生きることこそ細やかな幸せを得られる道と信じて
生き続け、そして老いて死を意識する年齢になって、突然すべてを奪われる人たちに
そこにどんな必然性があるというのか、

やはり残念ながら私には釈然としないものがあります。


この世に不条理というものがあり、そしてそれはどうしようもないものごとなのか、
そうではなく、たとえばこの世という物事に縛られず、もっと大きな枠組みでは
そこに本当に摂理があるのか、


この疑問が解消される日は私に来ないのかもしれません。


仮設住宅にたったひとりこの世に取り残された老人が、信心深くなかった人であるとは限りません。
むしろ、心優しい、幸せに家族に囲まれてこの人生を閉じるべき人だったかもしれない。



私はやはり、この歳になって、いまだに不条理を感じています。













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