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輪廻転生があるかないか [日記]






輪廻転生があるかどうかについての議論をすることが不毛であることは
少なくとも私の過去の経験において明らかです。


『生まれ変わり』がないとすれば、まさしく死んだらそれでまったく何もない『無』の世界に
それぞれの主観が立ち至るということなわけで、

すなわち本当にぷっつりと自身の主観がなくなるということが『無』であり、その状態が
ありえるという感覚を、主観をもって物事を感じている経験の延長線上でそのことが
想像できる人には何を言ったところで、説得力はありません。


自らの存在がなくなってからも、まったく自分の主観感覚のない世界で自分以外のものが
存在し続けるという観念を容認できる人、
あるいはそこまでむずかしく考えることなくそれが自然なこととして、なんとなくでも
そういうものだと考えられる人になれれば、この私もずいぶん精神的に救われるとも思います。


『無』というものがどういうことなのか、そういった類の話をし出せばきりがありませんが
自分が死んだら何もなくなるということが感覚的に受け入れられるという人に、
あるいは輪廻転生をただ感覚的に受け入れられないありえない物事としてとらえられる人は
私の経験としては欧米人の無宗教主義者に多かったように思います。

彼らはおおよそ二十世紀の物証的科学理論や合理主義を偏重する性質が目立つ人が
多く、実証不可能で精神論的、または形而上の議論になると、やたらと感情的になって
否定する立場をとろうとします。(少なくとも私の経験では)


かといって、私自身は一定の宗教を強く信じているわけではありませんし、宗教という物事に
一方で批判的な考え方も持っている人間でもあります。
しかし、日本人の多くがそうであるように、私もまた、生活の中でごく自然に仏教の考え方を
刷り込まれ、そして仏教的(神道的)行事に特に違和感を持たず参加してきているわけで
少なくとも輪廻転生という考え方を受け入れる地合いは私にも形成されているとしても

あくまでも感覚的に、死んだら自分の『主観』あるいは、想像を超えるほどに希薄になったり
感覚的には現在の主観とはかけはなれたものになったとしても、それに類するものは
なくならないのではないかとしか考えられない側の人であります。


このブログの少ない読者であるあなた自身はいかがでしょうか。


自分自身がなくなれば、この世界が、あるいは宇宙がなくなるのと同じこと、
すなわちそれはすべては自分があることで成り立っていて・・・・
という考え方の延長が、最近はあまり話題にならない「唯我論」でしょうか。

唯我論は極端な考え方であり、ある意味妄想的で極端な例だとしても、


死んだら、すべてが終わり、あるいは自分とはまったく無関係に物事が存在し続ける
はずがないという感覚を持っている人にとっては輪廻転生という物事は少なくとも受け入れやすい。


我々は生物であり、生物は有機体であるとするならば、なぜその生物としての有機体が
地球上に生まれなければならなかったのか

なぜ生物は生殖をもって子孫を残そうとするのか、
本能と呼んで自然なほどに、ごくごく当たり前の物事として種の存続を保とうとするのか


知的好奇心を通り越して原理原則にさえ疑問を呈するとしたならば、
私たちにとってあたりまえであって基盤であるはずの常識においても

少し視点を変えれば、物証主義者でさえ最終的には答えを得られない混沌があるように思います。


輪廻転生があるかないかを議論することは不毛であるとも思います。


また同時にこの世のあたりまえの物事に根本的な疑問を持ち続けることも
やはり不毛な物事なのかもしれません。






















タグ:輪廻転生
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